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サントリー美術館
サントリー美術館
東京都港区赤坂9-7-4 :六本木・東京ミッドタウン ガレリア3階
「東京ミッドタウン」 21世紀の日本を代表する街、世界に類を見ない独創的な街が誕生しました。

Ninnami Dohachi: An Observant and Brilliant Potter

ボストンからも里帰り
天才陶工 仁阿弥道八

のびのびと、まじめに。

 仁阿弥道八(1783-18355)は、京都の陶工・高橋道八家の二代目にあたり、清水五条坂を拠点に活躍した京焼の名工です。 茶道具から、食器、置物など彫塑的な作品にいたるまで多くの魅力的な作品を残しました。 仁阿弥道八は、関西では 「仁阿弥」 と呼ばれ、仁阿弥の茶道具は茶席において現在もなお人気があるといいます。 しかし以外にも、仁阿弥道八の作品が展覧会でまとめて公開される機会が決して多くありませんでした。
 本展では、鋭い観察力と卓越した技量を駆使して、真摯に作陶に向き合った仁阿弥道八の技とユーモア冴えわたる作品の数々を一挙にご紹介します。


会期: 2014 12/20(土)〜2015 3/1(日) 展覧会は終了しました。
休館日:火曜日
開館時間:10時〜18時
※金・土、および 1/11(日)は20時まで
※作品保護のため、会期中展示替を行ないます。

※いずれも入館は閉館30分前まで ※shop x cafe は会期中無休
会場:サントリー美術館 六本木・東京ミッドタウン ガレリア3階



画像をクリックすると大きな画像でご覧いただけます。

天才陶工 「仁阿弥道八」展

天才陶工 「仁阿弥道八」展
プレス内覧会 '2014 12/19
サントリー美術館


幕末京焼の天才陶工 高橋道八家の二代目仁阿弥道八(1783-1855)の珍しい作品展

「展示構成」
―本展覧会 「News Release No. sma0007」「仁阿弥道八」 図録より抜粋して掲載しています―

本展は、幕末京焼の名陶のひとり、仁阿弥道八の、茶の湯道具、煎茶道具、立体的作品まで幅広く、多くの作風を概観できるように、184件を一堂に公開します。 初代高橋道八の作品、仁阿弥の弟・尾形周平の作品、仁阿弥道八の作品、さらに江戸時代末から明治にかけて京焼を支えた一人に数えられる、息子・三代高橋道八の作品、そして現在九代高橋道八として活躍の色絵の作品五点を展示しています。
また、ボストン美術館蔵 「モース・コレクション日本陶磁」 の中からも12件の仁阿弥道八作品が里帰りする貴重な機会です。

「展示構成」
第1章 仁阿弥の父、初代高橋道八
第2章 仁阿弥の茶道具と 「写し」 の技量
第3章 仁阿弥の煎茶道具
第4章 仁阿弥の鉢 懐石の華
第5章 彫塑的作品 置物・手焙・炉蓋
第6章 御庭焼の指導者として
第7章 新しい時代


第2章 仁阿弥の茶道具と 「写し」 の技量

第2章 仁阿弥の茶道具と 「写し」 の技量
 仁清以来、京焼の陶工は中国や朝鮮半島のやきものの技法、様式を活かし、上手に写す技量は成功の鍵になりました。 一方で、19世紀になると茶の湯は社会に広く普及して、寺院での大法要、公卿、武家、豪商の交際に必要な教養となり、茶道具の需要が高まり、高級な茶道具の 「写し」 が京焼の陶工にも注文されました。 ここでは、仁阿弥道八の面目躍如たる茶道具の数々と仁阿弥が手がけた 「写し」 の作品のご紹介です。

・21最左側 《青磁象嵌菊花文龍耳瓶》 仁阿弥道八 江戸時代 十九世紀 建仁寺蔵
京都・建仁寺には、仏器・茶器を中心に膨大な数の仁阿弥道八・三代高橋道八作品が伝わっており、高橋家と建仁寺との深いゆかりを証明する貴重な作品である。

第4章 仁阿弥の鉢 懐石の華

第4章 仁阿弥の鉢 懐石の華
 茶道具の一種である懐石道具になかでも、「鉢」 は仁阿弥の個性が強く発揮されたうつわです。 中でも有名で数多く残っているのは、雪の降りかかる竹を描いた雪竹文様の手鉢と、桜と紅葉を半分ずつ描いた雲錦手の鉢で、制作時から高い人気を誇っていたことがうかがえます。

・95最左側 《色絵桜楓文鉢》 仁阿弥道八 江戸時代 十九世紀 サントリー美術館蔵
箱書に 「雲錦」 とある。 由来は、『古今和歌集仮名序』 の中の 「秋の夕べ竜田川に流るるもみぢをば帝の御目に錦と見たまひ、春のあした吉野の山のさくらは人麿が心には雲かとのみなむおぼえける」 のくだりにあり、ここから 「紅葉の錦」 と 「桜の雲」 を同時に描いた絵柄を 「雲錦」 と呼ぶようになったと考えられる。


第6章 御庭焼の指導者として

第6章 御庭焼の指導者として
 仁阿弥道八は自らの五条坂の窯を操業する一方で、地方に招かれ、御庭焼の指導にも尽力しました。 第6章では、 仁阿弥道八が関わったとされる文政10年(1827)に参画した 「紀州偕楽園焼」 や、天保3年(1832)に讃岐高松藩主・松平頼恕公に招かれて創始した 「讃窯」 や、 また京都嵯峨の豪商、角倉玄寧の個人窯 「一方堂焼」 の作品などのご紹介です。

・141最左側 《色絵紫陽花文四方鉢》 讃窯 江戸時代 十九世紀 東京国立博物館蔵
側面に、青い大きな花をつけた紫陽花の枝を描いた、小振りの四方鉢である。 紫陽花の花は白泥を盛り上げるように塗ってから青で着色し、立体感を出しており、仁阿弥作の紫陽花の鉢の雰囲気によく似ている。



仁阿弥道八(関連年表から抜粋)

1740 初代高橋道八(仁阿弥道八の父)、伊勢亀山に生まれる。
1763 初代高橋道八、京都・三条粟田口表町において陶業を見習う。
1779 初代高橋道八の長男・周助光貫生まれる。
1783 (1歳)初代高橋道八の次男・光時(のちの仁阿弥道八)京都に生まれる。
1788 (6歳)初代高橋道八の三男・光吉周平(のちの尾形周平、仁阿弥道八の弟)生まれる。
1797 (15歳)初代高橋道八の長男・周助光貴、十九歳で没する。
1806 (24歳)二代高橋道八、粟田青蓮院宮へ出入りを仰せ付けられる。
1811 (29歳)高橋光英(のちの三代高橋道八)生まれる。二代高橋道八、粟田口から清水五条坂へ移窯する。
1826 (44歳)9月、御室仁和寺宮より法橋に叙せられ「仁阿」の字を賜る。(「仁」の一字とも)
         同時期、醍醐寺三宝院宮より「阿弥」号を許されたともいう。
1832 (50歳)仁阿弥道八、讃州高松藩主・松平頼恕候の招聘により、三代高橋道八、弟子の初代清風与兵衛
         および十兵衛の三人を伴い、讃岐に赴く。
         三本松村の五輪にて築窯し、堤治兵衛がその指導を受ける。八月十日、「讃窯」の銘印が下賜され
         、以後これを製品に押す。
1842 (60歳)8月、家業を息子の光英(三代高橋道八)に譲る。伏見桃山に隠棲し、桃山窯を築いて製陶する。
         作品に「桃山」の銘印を用いる。
1845 (63歳)高橋光頼(のちの四代高橋道八)生まれる。
1855 (73歳)5月26日、仁阿弥、七十三歳で没する。

初代高橋道八は当時の大家、池大雅や上田秋成らと交流していたので、稀に合作の器がある。仁阿弥は紀州家、あるいは島津家などから招かれまたは命じられて陶器を作り、それぞれに恩賞を受けたという。三代道八は光央といい、道翁と号した。讃岐の国・高松藩の召に応じて讃岐に赴き、陶法を授けた。

建仁寺は、京都最古の禅宗寺院として1200年以上の歴史を誇るこの古刹の山内には、確かなものに限っても、仁阿弥の作品が30点以上伝わっている。 建仁寺は単に古刹として多数の古陶磁を所蔵していただけでなく、海外との文化的交流が極めて制限されていた江戸時代にも、朝鮮・中国・ヨーロッパといった海外からの輸入品を入手しやすい特別な環境にあった寺院だからである。 対中国・オランダ貿易の窓口であった長崎には、長崎代官の末次平蔵が壇越となって建立した末寺の春徳寺があり、代々の住職は輸入の中国書籍に御禁制の切支丹に関わる記述がないかどうかを検閲する書物改役に就いていた。 また、建仁寺は京都五山の一つとして、対朝鮮外交の窓口であった対馬の以酊庵へ住職を輪番で派遣する寺院でもあったから、朝鮮・中国・ヨーロッパなど海外の文物を手に入れるには極めて有利な環境にあった。


お問合せTel:03-3479-8600
サントリー美術館公式サイト:http://suntory.jp/SMA/
主催:
サントリー美術館、朝日新聞社
協賛:三井不動産、三井住友海上火災保険、サントリーホールディングス
特別協力:京都国立博物館 特別出品:ボストン美術館 協力:日本航空


参考資料:NEWS RELEASE No.sma0007、「仁阿弥道八」図録、他
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